一瓶の毒薬を

 ガラスを噛み砕くように生きる。

 遠くの島で響いて終わらぬ歓声と、すぐ近くの始まらないエイトビート。私は決定的な刹那が来るのを待望していた。そして、同時に訪れる決定的な言葉を何より恐れていた。重厚で空気を含んでいる、まるで相反するかのような性質を併せ持った音楽を嫉んだ。きっと私に響くはずの音楽が、私の嫉妬の為に、この体に染み入るすんでで反射する。見当もつかない場所に向かって進んでいく。

 

 しばらく胸に何も入ってきていない。こんなひとりだけが抱えた苦しさを誰に話しても得られないのはもうわかりきっていることで、そうであるから尚のことそれ以外が話せない。真っ暗な夜に期待していた、ただ胸を躍らせた、そんな意地汚い純朴はどこへ行ってしまったのか。私は誰かをつよく抱きしめたかった。私にはできなかった。もうどこを探しても探し物もないのだ。

 

 表層すら多重だ。私の自我だけが残ったさみしい胸は何か狂おしい虚無が占領してしまった。美しいギターリフとメロディに私の表情が歪んで、目に涙が浮かぶ。英語喋れるようになりたいな。私の感情はずっとどこかへいったまま、顔の表に貼り付けるだけの仮面にまでなった。

 

 ゼリーを喉に通すと、そのつめたさが胸の奥の管を冷やしながら落ちていく。それが気持ちよくて、きっとそれが心のありかを示しているんだろうと思う。私が報いることのできなかった愛情たちへ。元気にしているかい。きみたちがなければどれほど楽だったろうね。吸う空気は気温のままで、吐く空気は体温のままだ。あたたかい空気が大嫌いだ。

 

 何もかもに懺悔したいと思いながら生きている。そして並走しているのは私は間違いを犯したわけではないという理性だ。胸を開いて、この冷たい夜の空気にあててしまいたい。私は人の体温も自分の体温も全部苦手で、きっとそのために幾分か生き辛い。生き物は恐ろしい。恐ろしいほど熱くて冷たくて動いていて動かなくなる。目の前のほかを見ることが出来ない。なんの呪いだろう。この呪いを知らずに生きていくことは、それはそれで恐ろしいことかもしれない。

 

 私の胸の鋼鉄の表面は閉塞感を伴う。そしてすべてを制限する。

 何をも愛せず終わる。愛したヒーローにもスターにもなれないままで。

それは残酷な訪問だった

 私達は愚かさの末裔だ。怠惰に腰を据え夜半細々散歩に出ては朝の影に胡座をかく。その涼しさに休んでも自分ではない別個人の考えていることなど見当がつかないしついても理解ができない。何を思ってその言葉を選びなぜ地上からいなくなることを選んだのか、ぜんぶわからない。ちょうどひとりひとりがそれを選びまたしそこなったとき、自分の動機がわからなかったように。

 

 多すぎる疑問に納得できるまで粘っていると社会が巨大に思える。ビル群は摩天楼の風格で仲の悪いアンサンブルを奏で、わが身を覆いつくさんとする波に変わる。のまれれば孤独ではなくなってしまうと惧れひたすら走って津波から逃げた。背後のずっと遠くで海が吼えるのを聞いて振り返ると生き延びた足元に穏やかな薄い波が寄せていた。私は浅瀬から社会を眺望している。そんな逃避行を重ねているうちに今度はその煩累に気づく。政治、流行、気候、交友、権利、外交。人間のペルソナを取り去ろうとするトピックは何もかもくさくさするだけだ。その磯には私がずっと嫌いな香りが立ち込めている。

 

 安らぎを求めてきた。心からの安寧、安心。それはペーソスやルサンチマンに委ねられていても構わない。そしてその追及の裏では人生が流離譚に完結することを願っていた。けれどこの二つの欲望を叶えるにはきっと人生も二つ必要だ。諦観で世界を狭くするのはまだ早いと言う存在もあることだろうか。けれどいつだって私に引導を渡すのはそういう存在である。そして渡された私はこう思うのだ。「英傑の物語でなくても、ほんとうはいいのかもしれない。私がヒーローになりたいのは、いったいどうしてだろうか。」欲望は消費される。いともたやすく、まるで芥のように。

 

 私は苦しみや痛み、恐れや怯えは欲しくなかったが、あなたと獄に入りたかったのだ。違和感や排斥感を覚えることや社会に対して立ち上がり何度も声を張り上げてきた先人のように、時に凶弾に倒れ時に凶弾と謗られた彼らのように、私はあなたと共に戦いたかった。もうあなたに戦うための腕はないだろうか。しかし歴史の証左は私達だ。神の存在を証明するのも全ての闘争を良いか悪いか判断するのも、この時代、そして風潮、流れの中に生きる私達一人一人の手に委ねられている。人間は愚かだと呪い文句を宣う私はそれでも人間をいとしく思っている。そして是非人間として高邁な精神で社会、世界、そのような大きなものに向き合いたいと望んでいる。ひとりが生きやすく、またひとりが生きやすく、社会が掴み損ね見て見ぬふりで通してきた存在全員の掌を手繰り寄せよう。人のために山を削り、その土で谷を埋めることが私達にはできる。道や河川だってきっと整備できるはずだ。私は先人の戦いから一つを学んだ。あらゆる手を尽くしても、犠牲者は生まれるということ。けれどそうであるならば、打開策を思案するしかない。人々を諦めることなど多分生きている私達にはできない。

 

 星の瞬きを心象の明滅に見立てよう。人生の栄枯転変を花の一生に例えて語るのはやめにしよう。星には手が届かず花を手折ることは簡単だ。扱いやすいというだけで都合よく利用することは同じ過ちを繰り返す原因になる。かつて偉人は演説した。「我に自由を、さもなくば死を」と。これはずっと昔、今の先進国が未成熟で発達途上だった時代の言葉で、今の世の中にふさわしいかどうかは怪しい。育ち過ぎた社会の仕組みの中でいかなる人も不自由なく生きるために、自由な人間には多少の不自由が要求される。己の快適のために何かを犠牲にしすぎるのは、時代の素振りとしてあまりふさわしくないのではないか。けれど快適に過ごしている自分の体が確かに存在することで、私は理想と現実の距離に頭を抱え、厭世的になる。

 

 忘れたくないことがある。それは死んだ祖父の声や匂いや好きだったものの雰囲気、人生の忘れられない刹那などである。しかしそれらがどれだけ大切で貴重で二度と起こらないことでも、結局忘れる。実際忘れてしまった。だが忘却に気がつくのは幸福なことで、なぜならその気づきは憶うことと同時にやってくるものだからだ。普段通りの生活をしている何気ない一瞬で、ふいに思い出すのだ。記憶の風景の光芒や太陽の焼ける香りが私も知らない自分の器官を走り抜ける。そして忘れていたこと、雲烟過眼してしまう性格を寂しく思う。けれどそれは人生の光だ。忘れてしまうものは思い出せるということ。再会できるということ。

 

 ミーティアは青を打ち砕いてデブリ

 思索と憂慮の切れ端を私はこれからも抱きしめていくのだろうか。それがどれだけ辛くて誇らしいことなのか。内面と在り方の隔たりにこのままずっと苦悶しながら、私は決定的な瞬間を探し求めよう。もっともエピファニーは自ら探しに行くようなものではないが。

明烏が鳴いている

 あなたの好きな音楽を教えてください。あなたが私に、教えてもいいと思うなら。

 

 ある人がいなくなってしまった。あなたは聞いたこともない名前の人かもしれない。すこししてその体は見つかった。悲しみにしずんだまま一週間が過ぎていて、一日ははやく終わる。そうして気づいたら何かが終わっていた。誰にも言えなかったから、誰も知らない。何かが終わって結果は不調で、ほしいものを買って食べて飲んで、遊んだ。

 悲しみに向き合えないまま受け入れて、今日は誰かが選んだ日になった。選んだのは本人かもしれないし他人かもしれない。だけど確かに、誰かはいなくなった。

 

 あなたには嘆きが映っているだろうか。それは誰の悲痛だろうか、またはそうであっただろうか。今ここで私は酷いことを言っているのかもしれない。だけど、ほんとうに信じている。わかっている。あなたが自分ではない人間の感情に心を傾けることが出来るということ。とてもやさしいあなたを私は見たことがある。

 

 宇宙は初めからずっと同じ重さだ。それが生まれた瞬間から今まで、誰かが選び、誰かが連れ去られ、そうして去る者に比例して星が増えるたび、この地球は軽くなった。軽くなったことで誰かが得したとか、損したとか、人間がそういう話をするようになったのはいつからなのだろう。

 

 あなたは鐘の音を聞いたことがあるだろうか。世界にいくつあるのかは誰も知らない、実際鳴るのかも分からないその音をしかと耳にしたことが。聞いたからと言って、それはあなたに理由を求めはしない。ただあなたのために鳴っている。

 

 誰かがいなくなるということは、ここにいるのにこの地上からいなくなってしまうこと、これ以上を紡いでくれはしないこと。気づいてから、ずっと胸が冷たい。吐く息も吸う空気も、温度を感じるたび嫌になる。

 おだやかに生きるということは人々に祈るだけでは叶わないことなのか。けれどずっと遠い私には祈る以外方法がない。わたしたちはあなたを忘れない。一緒にこれからも生きよう。わたしたちはあなたと生きることができる、その覚悟も準備もここに。

 けれどいつかは受け入れなければならない。わたしたちがあなたに救われたことへの責任を取るときが必ず訪れるだろう。

 

 そのとき、絶対拒んだりしないように生きていかなければ。

 Rest sweet, we always love you and will never leave you alone.

グレープフルーツを割る話

 生きていくのに必要なものはなんだろうか。

 ボールペン、本棚、紙、落書き。バイブルに水分、椅子、音楽。

 甘いものとガムとモンエナはないとやっていられない。

 

 あなたの好きな音楽は何ですか、ええ、私は。

 ゴミだらけの海に死す。

 使わないのに少しずつ厚みを増すアルバム。

 

 はっきりしない空気を吸う、窓から風が吹いてくる。煙がくゆる。

 灰色の群青に浸っている。

 

 夏を待っていた。ラベンダーのアイスクリームを食べるために。

 誰かを待ってるけれど待ち人はいるのですか。

 

 秘密にしている買い物。

 少しさみしいので、ほしいものをこそこそ買う。

 

 グレープフルーツに月とレモンと油。

 

 ほめられたのは、愛しているもののことだった。

 にくい人間に、にくい言葉で、愛しているものを表現されてしまった。

 でも私は単純だから喜んで、それからずっとギターを手放していない。

 

 それでよかった。

 どんな時だってにくしみをくすぶらせていることは、私のためにならないと思うのだ。

 

 にくいよね、ほんとうににくいよね、わたしはあなただからわかったつもりになっている。

 人生を無碍に扱った人間を、許せるわけないのだ。

 

 いつか自分とギターで誰かのためを歌いたいなあ。

 雲の間の月にそれを望んでいる。

ここでは自由に生きられるよ

 四月のことは好きだったけれど、不信感はあったのだ。

 なんでもできるんじゃないかとか、未来は素敵になるかもしれないとか、期待をはらんだ風を吹かせるくせに、けっきょくそうはならないから。

 

 四月、ぼんやりうつくしい遠くの空が好きだった。誕生日に与えられたデジカメはあんまりうれしくなかったけど、わざわざそれを引っ張り出してきて、自転車で家の前の坂を上って、小高いところからフレームに収めるくらいには。

 

 四月に私は死ぬ準備をしていた。何度も繰り返し、ことあるごとに、いろんな方法で、伝えてきてはいる。たくさんの人に、死にたいのだと言っていた。なぜかといえば、死ぬ直前、挨拶をするひとをきめるために。

 私は優柔不断だから、死ぬとなればいろんな人間に感謝と懺悔とを伝えようとするだろう。山ほどの蛇足してまでも私の罪悪感を肯定しようとするだろう。わかっていた、だから、死にたいと言って、私が苦しまないような反応をくれた人間を折に触れては絞ってきたのだ。

 

 自殺には何度も失敗している。生きていることを怖がっているくせに、死ぬとなればすべて無に帰すことの方が恐ろしくなる。

 わかっている、人ひとりが死ねど、生き残りの誰かの記憶で、活動で、きっとしばらく忘れられることはないと。

 だけど、信じられないのだ。私の死を悲しみ憂う人間がいるのだろうか、どうせなんだってすぐに忘れるくせに。一生生きていたいけれど辛さに耐えられない体たらくが記憶に残るはずがない。そして、死んだあとには、私のすべての嘘が露見するのだ。

 

 軽薄な春の小景に私はときどき耐えられなくなって、何も言えなくなる。言いたい言葉を飲み込んでいるのではなくて、ことばのぜんぶがいなくなってしまうのだ。とつぜん裏切ったことばたちをかき集めるのに、何時間もかかる。何時間もごみにして、自分のところからいなくなったものを必死に並べなおす。

 

 この四月に、私はほんとうに死ぬつもりだった。

 なにもかも耐えられなかった、言葉もどこか行ってこんどばかりはだめだと思った。

 準備の途中、ちょうど三月の真ん中に、友人のメッセージが届いた。

 私の方も、死ぬときの挨拶を送ろうとしていたから何かと思った。

 

 友人の言葉はむずかしかった。頑張れば読解できるだろうと思いはしたが、向き合うことが困難だったのだ。敷居が高いのではなくて、私がずっと目を背け、避け続けてきた類の文章だった。人間を大切にするというたっとい営みを表現する、高潔な。

 

 私のために届いた言葉たちであったのに、知っている言葉ばかりなのに、難解だった。屈折する私のすがたに寄り添おうとするまっすぐないろに、私は身じろいで、頭を抱えて、ひとりで寂しく泣いていた。こんなときだって自分の為にだ。ひとに認められようとするのに認められるときに嫌がった私に届いた初めての言葉に体躯を折り曲げてぐすぐす泣いて、みじめになった。手をもう少し伸ばしたら、もっと早く受け取れたのかもしれない今までの望みに気づいたのだ。

 

 私の愚かさに反して、何時間たっても友人の文章は小さな液晶の奥できらきら輝き続けていた。

 返信を迫られはしないだろうとわかっていたが、どうしても返さなければいけなかったから、勝手にそんな強迫観念を抱いて、とりあえず、失くしたばかりのことばたちを腕いっぱいに捕まえた。

 

 夜に届いたものは、夜明けまでには返信したかった。

 私が依存している言葉を使わないで書いた。

 いつも自分に都合のいい言葉で固めていた。自分のことばかりを語るから。

 そこまでしたが返事には自分のことをまた書いた。

 

 四月に死ぬ気でいた。

 そのはずが、また死に損なってしまった。意志が弱いのだ。死ねばいい。ありがとうと感謝を言って、私はこういう人間なんです、それだけ残して死ねばいい。

 友人のやさしさが何だというのか、死ねないことを他人のせいにしてまた生き残るつもりじゃなかろうな。まさにそのとおりだ、救われる人生に希望を抱いてまた死ねなくなった。

 私はゾンビと変わらない。人の形で人の心をむさぼって、かろうじて生きながらえている。人を捨ててまで生きたかったわけじゃない、だから人を取り戻さなければならない。

 

 ここまでが人生だ。

 人を救う人間になれるように少しでも善処しようと思う。

 こんな風に人を望んだのも友人の言葉のおかげである。

 ありがたかった。ほんとうに、生きててよかったと思った。

  

日々が曖昧

テストが始まる前のほんの一瞬がずっと続けばいい。

そんなことを、思ったことはない?

 

トヨタの4WD、V6が停まって、小さな女の子が助手席から飛び降りた。

 

ある日の昼過ぎ駅前で、名前なんか知らないアイドルが、白いついたてに三方と大勢のファンに一方を囲まれて歌っていた。

せーの、ハイハイハイ、一生懸命掛け声をかけて、オタ芸と呼ばれるあれをして、歌なんか、聴いちゃいない。

そんなファンよりも大きな声で、マイクは通してたけれどね、確かにそこで歌っていた、アイドルがいた。

舞台の後ろ、ついたての隙間から見えたアイドルの、白い脚がなんぼんもみえて、それで、泣きそうになった。

 

その脚にさようならをして、夜を待ったよ。

後日談

その後にも、わたしは彼のゆめを見た。夢、夢、夢。

 

あれはほんとうに夢だったのか、そうじゃなかったのか分からない。刃を握って自ら突いたはずの胸は、目覚めた時綺麗だった。

それでも、きれいな胸の奥のほうに冷たいものがわだかまっている。

沢山のゆめの後で、わたしはさみしくなっていた。

 

汚れた白砂で、遠い波間に俳句を詠みたいような、丁度そんな気持ちだ。

 

あの墓はどこにあるのだろう。

 

届かない空の青を吸ってもしょうがないのに、いつまでも宇宙を向いて深呼吸していた幼いわたしとおなじまま、似たようなことをしている。

きっとまだ、彼の墓は作られていないし、ましてや彼の血は巡っている。あの墓地はわたしの地元にあった。奥に見えた山脈は冬の、三国山脈

ありもしない事実を夢に見てしまって、少し死にたくなった。

 

2019 7/11に書いた。

来年の、彼の誕生日にでもあげようと思い温めていたが、誕生日というのは本来祝福であるはずだし、言葉にも鮮度があるというから、今のうちに載せておく。