懺悔

 私が無下にしたものを数える。

 数えきれないほどの被害者が、私のことをどこかで恨んでいる。

 そう思うと、何もかも恐ろしい。

 

 私が本当に傷つけてしまった人がいて、その人を傷つけるほどに愚かだったあの頃をなかったことにできるならどれほどうれしいことだろうかと思う。彼女は何度も私に声をかけたのに、なんども感謝してくれたのに、私は何も返せなくて、彼女の素直なところが恐ろしくてそして恨めしくて、悲しいくらい無情に彼女のことを忘れようとした。優しい彼女はそれでも毎年私の誕生日を祝って、手紙にたくさんの思い出を書いて、私のことを愛してくれた。そんな人の愛情を失うことが今は一番怖い。あれほど煩わしかった素直さが今は泣くほどたっとく映る。あれほど恥ずかしかった幼さが美しくてたまらない。

 

 ずっと後悔を抱えている。私がなすことは何もかも他人の損失につながってしまうと本当に信じている。それが病的なものだと思うことはできないのは。それこそ病的な何かだ。私は苛まれるほど人を裏切っただろう。人を恨んだだろう。それでも私を愛していると言葉にしてくれる友人がいる。どうしてなのかわからない。友人らですら、むしろそのことに関しては恐ろしく見える。どこからやってくるとも知れない、あるいは、生来のものなのかもしれない強い背徳感と罪悪感で身が干からびていくようだ。

 愛していると言えるのはなぜなのか、教えてほしい。人が愛してくれるわけも理解のできない薄情な私をそれでも愛するというのなら、私に、あなたの愛を無条件で享受させてほしい。恐ろしいのだ、私は薄情なまま生きてきたから。自分のことすら愛することが出来ない。薄情な人間の気持ちや考え方しか知らないから、甲斐のない私を愛せるような心は教えてもらえなくばきっと理解できない。あなたに会うとき毎回私は自分が間違っていないかを確認する。間違った自分を準備していないか内側で問答し続けている。日常で不安になるほどに自分の枚数が増えている。自分が増えて増えて捌ききれなくなって、いつかきっと間違ってしまう。あなたに見せるはずではなかった私を携えてあなたを訪ねてしまうかもしれない。そうしたら、私は、私を許せないしあなたは私を愛せなくなると思う。それをまた恐れている。自己愛の不足によって他者の愛情、自分の本質すら病的に疑っているうちに足を踏み外して、崖を滑り落ちて、愛情も本質も何もかもまとめて失ったっておかしくない。とにかく恐ろしい。生きていくのがこんなにつらいのに私はどうして娯楽にも気を許せないのだろう。