ここでは自由に生きられるよ

 四月のことは好きだったけれど、不信感はあったのだ。

 なんでもできるんじゃないかとか、未来は素敵になるかもしれないとか、期待をはらんだ風を吹かせるくせに、けっきょくそうはならないから。

 

 四月、ぼんやりうつくしい遠くの空が好きだった。誕生日に与えられたデジカメはあんまりうれしくなかったけど、わざわざそれを引っ張り出してきて、自転車で家の前の坂を上って、小高いところからフレームに収めるくらいには。

 

 四月に私は死ぬ準備をしていた。何度も繰り返し、ことあるごとに、いろんな方法で、伝えてきてはいる。たくさんの人に、死にたいのだと言っていた。なぜかといえば、死ぬ直前、挨拶をするひとをきめるために。

 私は優柔不断だから、死ぬとなればいろんな人間に感謝と懺悔とを伝えようとするだろう。山ほどの蛇足してまでも私の罪悪感を肯定しようとするだろう。わかっていた、だから、死にたいと言って、私が苦しまないような反応をくれた人間を折に触れては絞ってきたのだ。

 

 自殺には何度も失敗している。生きていることを怖がっているくせに、死ぬとなればすべて無に帰すことの方が恐ろしくなる。

 わかっている、人ひとりが死ねど、生き残りの誰かの記憶で、活動で、きっとしばらく忘れられることはないと。

 だけど、信じられないのだ。私の死を悲しみ憂う人間がいるのだろうか、どうせなんだってすぐに忘れるくせに。一生生きていたいけれど辛さに耐えられない体たらくが記憶に残るはずがない。そして、死んだあとには、私のすべての嘘が露見するのだ。

 

 軽薄な春の小景に私はときどき耐えられなくなって、何も言えなくなる。言いたい言葉を飲み込んでいるのではなくて、ことばのぜんぶがいなくなってしまうのだ。とつぜん裏切ったことばたちをかき集めるのに、何時間もかかる。何時間もごみにして、自分のところからいなくなったものを必死に並べなおす。

 

 この四月に、私はほんとうに死ぬつもりだった。

 なにもかも耐えられなかった、言葉もどこか行ってこんどばかりはだめだと思った。

 準備の途中、ちょうど三月の真ん中に、友人のメッセージが届いた。

 私の方も、死ぬときの挨拶を送ろうとしていたから何かと思った。

 

 友人の言葉はむずかしかった。頑張れば読解できるだろうと思いはしたが、向き合うことが困難だったのだ。敷居が高いのではなくて、私がずっと目を背け、避け続けてきた類の文章だった。人間を大切にするというたっとい営みを表現する、高潔な。

 

 私のために届いた言葉たちであったのに、知っている言葉ばかりなのに、難解だった。屈折する私のすがたに寄り添おうとするまっすぐないろに、私は身じろいで、頭を抱えて、ひとりで寂しく泣いていた。こんなときだって自分の為にだ。ひとに認められようとするのに認められるときに嫌がった私に届いた初めての言葉に体躯を折り曲げてぐすぐす泣いて、みじめになった。手をもう少し伸ばしたら、もっと早く受け取れたのかもしれない今までの望みに気づいたのだ。

 

 私の愚かさに反して、何時間たっても友人の文章は小さな液晶の奥できらきら輝き続けていた。

 返信を迫られはしないだろうとわかっていたが、どうしても返さなければいけなかったから、勝手にそんな強迫観念を抱いて、とりあえず、失くしたばかりのことばたちを腕いっぱいに捕まえた。

 

 夜に届いたものは、夜明けまでには返信したかった。

 私が依存している言葉を使わないで書いた。

 いつも自分に都合のいい言葉で固めていた。自分のことばかりを語るから。

 そこまでしたが返事には自分のことをまた書いた。

 

 四月に死ぬ気でいた。

 そのはずが、また死に損なってしまった。意志が弱いのだ。死ねばいい。ありがとうと感謝を言って、私はこういう人間なんです、それだけ残して死ねばいい。

 友人のやさしさが何だというのか、死ねないことを他人のせいにしてまた生き残るつもりじゃなかろうな。まさにそのとおりだ、救われる人生に希望を抱いてまた死ねなくなった。

 私はゾンビと変わらない。人の形で人の心をむさぼって、かろうじて生きながらえている。人を捨ててまで生きたかったわけじゃない、だから人を取り戻さなければならない。

 

 ここまでが人生だ。

 人を救う人間になれるように少しでも善処しようと思う。

 こんな風に人を望んだのも友人の言葉のおかげである。

 ありがたかった。ほんとうに、生きててよかったと思った。