アンタイトー

 激務に追われていてもじゅうぶんに眠る才能を持つこの人でさえ、今は眠れないのだ。
 彼女のパソコンのオーディオからはさみしいジャズが流れていた。ふたつに分解されて平面をなぞるだけになった金管のぬくもりやピアノの調べが切なく、空気を重くしていく。
 泣けない彼女の代わりに自分が泣いてしまいたい、悲痛な叫び声で満ちているこの部屋から彼女を解放してやりたい、そう思った。

 

「初めて嘘を吐いたのは就学前のことで。私は大人の興味を引きたくて、昨晩家が火事になったとでたらめを言った。そうしたらいつもは私のことに構いもしない大人が心配をしてくれて、今も覚えている、その嘘が夕方にはばれたこと、どうしようもなく恥ずかしかった。」
「どんなことでも嘘を吐いて、あなたはなぜ懲りないんだ?それで何度となく後悔をしてるのに」
「やめられない、きっといつかは嘘から解放されるんだと期待をしては、それまで嘯いてきた人間たちとのつながりに足を引っ張られてしまう」
「つまり、あなたは自分のせいで失敗した過去をいつまでも引きずるのは他人のせいだと言うわけ」
「そう、その通り」
「巻き込まれた他人の人生に申し訳ないと思ったことは?」
「しばらく前にその責任は放棄したから」
「しばらく前までは申し訳ないという気持ちを持っていたということね、それではどうしてその気持ちが変化したの?」
「嘘が悪いと思っている人間が愚かなだけ、感性が乏しくて先入観にとらわれているのよ」
「なるほど、まあわからないけど」
「どうだっていい、私の感性を理解してもらいたかったらこんなところに閉じこもったりしないわ」
「正しさのために立ち上がる人間たちは?」
「いいじゃない、私もなりたかったの」
「あなたはもうなれない?」
「愚問よ、けれど答えるわ、私も愚問だと自覚しつつ何度も自分に尋ねたから」
「ありがとう」
「私は何者にもなれない、これが答え。かっこいいでしょ?」
「あなたがそう言うならそうだよ」
「あなたは社会にならないわね」
「当然だね、まだ訊くよ。友人はいる?」
「答えるために質問をするわ。私の名前を知っている?」
「もちろん、だからここに来れたんだ」
「それならあなたは友人になれるかもしれない」
「少しわかりにくいな」
「そのうち分かるといいわね」
「家族は?」
「答えられない。私にも何なのかよくわからないの」
「人を攻撃したことは?」
「あるわ。何回も何回も繰り返し、短い期間で陰湿に。くだらないでしょ、今はこんなに攻撃されることを恐れるのに。それでも正常な私はまた攻撃をするのでしょうね」
「悪いものは?」
「その言葉は嫌いね。他人が他人を卑下することを眺めることの何が楽しいの?悪を認めて楽になるのは本人だけよ」
「差別は?」
「忌まわしいものだわ、ほんとうに。どうして根付くのかしら」
「最後に思ったことがあるんだ、この出会いを祝って言ってもいいかい?」
「返事は必要?」
「してくれるならうれしいな」
「そう」

「長くないから、寝ないでくれよ」
「たぶんね」

「あなたの人生は呪われたままなんだよ、初めて嘘を吐いた日から。それなら忘れてみないか。あなたは自分を許せるかい?原初の嘘を忘れて、しがらみを自分で絶やすんだ。それが許すということだよ。あなたが棄ててきたものは数知れない。今ここでそれらと似たようなものを切り裂いたところで何も変わりやしないよ、あなたの空洞には勇気も必要なんじゃないかと、ぼくはね、そう思ったんだ」 
 
「へえ。ねえ、あなたの名前を聞いてもいい?」
「ああ、すまない。僕の名前はムギだよ、はじめに名乗るべきだったね」
「ムギというの。そう。ムギ、私はイノセントを信じているの。他人の中にも、私の中にもそれを見る。けれど私が正しさの為に立ち上がるのなんて、まっとうな正しさに申し訳ないわ。申し訳ないなんて思っていないくせにと思う?それはあなた次第よ。私は私の為にものを言うから。この花でもどうぞ。持って帰るといいわ」
「どうも、ああ、いい香りがするね」
「もういいかしら」
「うん、今日のところはね。またそのうち来るよ。そのときは僕が何か持ってこよう」
「つまらないものならいらないわ」
「それは大丈夫さ、ぼくが選ぶんだから。それじゃあ道を忘れる前に、じゃあね」

 

「これで最後なのだけど」
「ああ、いいよ」
「私はイル。ねえ、ムギ。私の名前を呼んでみて」